有名武将アルバム

直江兼続

生没:1560年~1619年
正室:お船の方
主君:上杉景勝
甲冑:色々威二枚胴具足
幼名:与六

 直江兼続は戦国時代から江戸時代前期にかけての戦国武将で、上杉家の家老。父は樋口兼豊、母は直江景綱の妹。越後の坂戸城下現在の新潟県南魚沼市に生まれ、上杉謙信の養子となった上杉景勝の小姓、近習として仕えたとされる。

 上杉謙信の急死後に起こった御館の乱では景勝側に付き勝利。景勝が家督を相続することとなる。また、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害される事件が起こると、信綱の妻であった直江景綱の娘、船の婿養子となり、跡取りのいない直江家を継ぎ、越後与板城主となる。

 狩野秀治と二人で執政を行っていた兼続であったが、秀治が病死すると単独で内政、外交を行うようになった。豊臣政権に入ると、佐渡征伐、小田原征伐、朝鮮出兵など、景勝と共に参陣し武功をあげた。一方、越後の内政にも力を入れ、後に米所の礎となる新田開発や、青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用の繊維を増産し布を織り上げ、京で売ることで莫大な利益を上げるなど内政の手腕を発揮した。

 慶長三年、秀吉が死去すると、徳川家康が台頭し、石田三成と懇意にしていた兼続は、家康と対立。度重なる上洛要求も拒み、直江状と呼ばれる書状に家康が激怒したというような逸話も残る。そして会津征伐と称し家康が出兵すると、京で石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが起こるが、東軍に付いた最上義光との長谷堂城の戦いにて二十日間も足止めを受け、西軍は惨敗、撤退を余儀なくされる。

 慶長六年、景勝と共に上洛して家康に謝罪。出羽米沢藩30万石に減封され、罪を赦された。その後の兼続は治水事業を行い、川の氾濫を治めるため、直江石堤と呼ばれる堤を設けたり、新田開発により石高を約20万石増加させたりと、その功績は計り知れない。

 元和五年、江戸鱗屋敷にて病死。享年60。直江家は断絶となるが、これは上杉家の財政を助けるために高禄の直江家の知行を返上したのではないかといわれている。

※武将説明に関しては諸説あります。御了承下さい。